第二回 百年 芸能祭!

 

202491日~30

 

あっちこっちに神出鬼没

 

 

9月はいのちの祀りの月


 

2023年に、関東大震災百周年を迎えることを契機に立ちあげられた「百年芸能祭」。目指しているのは、これまでの百年間、近代化の陰で、声もなく奪われていったすべての命の鎮魂のために歌い躍る、祀りの「場」を開くこと。

 

百年前、近代国家の規格に合わないからと多く人々が虐殺されました。朝鮮人、中国人、琉球人、標準語を話さない人、主義者と呼ばれて国家権力に疎まれた社会主義者やアナキスト、なんとなくみんなとちがう異人(まれびと)……。


 それから百年の間、誰かの利益にために、いのちが効率性で計られ、数量化され、分断され、使い捨てられる時代が延々と続いてきました。戦争や震災のあとの「復興」というとき、高度経済成長というとき、それは「いのちの復興」ではなく、「いのちの成長」でもなく、「誰かの利益の新たな開発・発展」であることを、私たちはもうさんざんに思い知らされてきたはず。

 ナショナリズム、帝国主義、植民地主義のはびこる世界というのは、ほとんどすべてのいのちにとって、なんと過酷な世界であることか、もういやになるほど知りつくしているはず。

 

202310月から、世界中の人々が見つめる中で、かつては植民地帝国だった「先進国」を自称する少数の大国の支援を受けて、まったく悪びれることなくイスラエルが繰り広げているガザの大虐殺は、いまわたしたちがどんな世界に生きているのかをとことん見せつけるものでした。

この世界では、殺されない側で生きるということは、殺す側で生きるということにほかならない、しかも、殺す側-殺される側のどちらに生まれ落ちるのかは、実のところ、自分には決定権がない、そんな世界に安住することの恥辱を、いま私たちは痛切に感じています。 

 

さて、この世界にどうやって風穴を開けてやろうか、誰かの都合で、殺してもよいいのちが選別されるようなこの世界に。

生きとし生けるすべての命が尊ばれて、つながりあって、生きてゆく世界を、どうやって呼び出そうか、あらゆる抗いが大きな力で潰されてゆくこの世界で。

 

「権力に対する人間の闘いは、忘却に対する記憶の闘いである」と言ったのは、チェコの作家ミラン・クンデラです。

 

国家の歴史のように組織化された記憶とは異なる、権威から打ち捨てられた“非公式の記憶”を継承せよと語ったのはパレスチナ出身の知性、エドワード・W・サイードです。

 

そして、誰かによって注ぎ込まれた普遍の歌や踊りを振り捨てろ! それぞれのいのちの鼓動で、狂った調子で、ずれた躍りで、ええじゃないか! 大地を踏みしめ、自由に歌い踊れ! 自由につながれ! 自由にはびこれ! 原始芸能は新たな世を開く光であった、と小さな声でそっと語っているのは、百年芸能祭関西実行委員会であります。わっはっはっ。

 

中心もなく、権威もなく、粘菌のように、雑草のように、

歌や躍りがはびこる世界は、命がはびこる世界! 

 

人々よ、忘れるな、歌え!

人々よ、殺すな、躍れ!  

 

   

 

さあ行くよ、命はびこる新世界!


2024年百年大芸能祭実行委員会

 

足立須香、伊井鈴雄、井場宏、太田てじょん、岡竹信、北口学、姜信子、社納葉子、滝沢厚子、戸張岳陽、戸張あかり、納谷衣美、畑章夫、伴戸千雅子、深田純子、福田佳昭、藤本敬三、まるこ、横江邦彦、渡部八太夫


             百年芸能祭HP    https://yuyantan-books.jimdofree.com/

 

 

 

百年芸能祭は

趣旨賛同の方が、自身の生きている場で、自身が主催者となって、自由に芸能祭を立ち上げることで、どんどん 増殖していく「祀り/祭り」です。

 

たったひとりでも、声をあげて「百年芸能祭」と叫ばなくとも、自身の声で、身体で、思いで、「場」を開いたとき、そこが「祀り/祭り」の場です。

 

その場の主人公は、別に人間でなくともいいんです。たとえば、南三陸の山中で、昔から土地の神として大事にされてきたエノキの大木を囲んで、歌い踊るというようなことも、ありました。

 

どうぞ、趣旨賛同のみなさん、どんどんあなたの百年芸能祭を立ち上げてください。

立ち上げるときには、ご連絡ください。